例によって本題前に少々。SSK Worldの名前が、「新着リンク」の紹介としてあのFPANAPCホームページのトップページに載りました。Let’s noteをこよなく愛する私としてはこんなに嬉しいことはありません。おかげさまで多くの「れっつらー」の皆さん(ですよね、きっと)にアクセスしていただき、総アクセス数は予想よりもずっと早く4,000を超えました。どうもありがとうございます。
SSK WorldはLet’s note専門のページと言うことでもないんですが、Let’s noteなしでは絶対に成立しないページであるとはいつも思っています。これからも様々な機会で採り上げることがあるかと思いますので、れっつらーの皆さんもときどきは覗きに来てくださいね。実は、SSK Specialに書きためた記事を常設コーナー化しようとも思っているんですが、どういう形になるかは未定です。
以前のWeekly SSKで、音楽の「パクリ」についての意見を述べました。どんな芸術作品にもこの「パクリ」の疑惑は付き物なんですが、特に音楽作品にはこの手の話題は尽きません。次から次へと出てきます。演歌としては近年にない大ヒットになった「孫」にも、他の曲に似ているという疑惑が向けられましたね。前回の話題のように「パクリやんか」という発言が出るだけならまだかわいいもので、時には裁判にまで持ち込まれることがあります。
音楽を作る側でもある私の立場からすると、こうした「パクリ」疑惑の多くは単なる偶然の一致ではないかな?と思います。実は、音楽というのは非常に制約の多い芸術作品で、似てしまうこともやむを得ない面があるんです。
例えば、近代以降の西洋音楽で1オクターブは12の半音に分けられていますが、これらの12音は音楽の中で完全に対等なわけではありません。1曲の中で常用されるのは、この中の5?7音だけです(転調する場合は除きます)。しかも、この5?7音にしてもランダムに並べればよいわけではありません。人間が心地よいと感じる音の並べ方は、実は非常に限られているのです。
これらを体系化したのがいわゆる音楽理論なんですが、ほとんどの楽曲は、この理論をときどきは裏切りつつも、基本的にはルールに従って作られていきます。この「裏切り方」がいわゆる作曲者の個性かな?とも思います。もちろん、映画やゲームの音楽では不安や恐怖をあおるために「アンチ音楽理論」的な曲を作ることも多々ありますが、これも結局は音楽理論を利用していることになります。
世界各地の民俗音楽(日本にも民謡や雅楽がありますね)も、いわゆる西洋音楽とは違うそれぞれの形式を持っています。それぞれの形式の中で作られる曲は、多かれ少なかれ似たものになります。西洋音楽の中に民俗音楽の形式をちょっと借りて来ることで、独特のオリジナリティを持つ曲もありますね。
この前、あるCDを買って聴いてみたところ、これまでに作り溜めている曲とよく似た曲が3曲もあって驚きました。私はめったにCDを買いません。買って聴くくらい気に入っているアーティストの曲なら、曲の感覚が自分の感性の中に取り込まれているはずですから、似てくることは仕方ない面もあるんですが、それでもさすがに3曲というのはびっくり。少々落ち込みましたね。これでは「自分の曲だ」と言って公開するのは恥ずかしいですから。
前にも触れましたが、作曲者にとって「パクリ」と言われることは屈辱的なことです。よく似た曲が既にあることがわかっていて発表することには抵抗があります。裏を返せば、世に出ている数多の曲は、どれもオリジナルであることの自負を持って出てくるんだと思います。倉木麻衣だって、矢井田瞳(前回出てきた「椎名林檎クローン」な人ですが)だって、アーティストとしての誇りを持っている人なら誰でも、きっと私と考え方は同じだと思います。「似ている」という人はいるかも知れないけれど、この曲は真似なんかじゃない、私の曲なんだ…そういう自己主張を一曲一曲に込めて送り出しているはずです。
もちろん、明らかに他人の作品をそのまま利用しようとする意図を持って作ることは許されるものではありません。まあ、そういうことをする人はきっと生き残れませんよ。オリジナリティを主張する気持ちこそが、もの作りの最大のエネルギー源なんですから。この気持ちがあるからこそ、盗作疑惑はしばしば裁判にまで持ち込まれるんです…作曲者たちのプライドを賭けて。
コメントを残す