日曜日のベートーベン・第九の演奏会は、大盛況のうちに終わりました。実は、開演3時間前のゲネプロで指揮やオーケストラと合唱のテンポが完全に食い違ってしまう…というハプニングがあり、正直なところそのときは「ヤバいよ、これは」と思いました。私だけではなく他の団員も、指揮者の秋山和慶氏も、ソリスト諸氏も、東京交響楽団の楽団員の皆さんも…そこに居合わせた全ての人間が同じことを感じていたはずです。
しかし、本番では問題の箇所でもバッチリ演奏がかみ合い、終了と同時に割れんばかりの拍手と「ブラボー!」の声をいただくことが出来ました。夏の「フォーレク」演奏会に続いて、人間のここ一番での集中力を身をもって知った気がしました。もちろん、本番直前に的確に軌道修正をしていただいた、合唱団の指導者・齋藤令先生のお力が大きいと思うんですが。
とにかく必死だった去年と比べると聴く余裕があって、「失敗せずにちゃんと歌えた」という実感がありましたね。もちろん、まだ素人に毛の生えた程度のレベルですから、個人的には全然満足はしていません。来年こそはもっと上手に…あれ?気が付いてみるとすっかりハマってるような気が。
今日はクリスマスです。街中を歩くと、この時期はそこかしこに「クリスマス」の文字が躍ります。洋菓子店にはクリスマスケーキ、店頭に飾られるのはクリスマスツリー。そして人々が派手なラッピングをして持ち帰るのはクリスマスプレゼント。電飾に彩られる場所も多いですよね。
英語の「Christmas」を直訳すると「キリストの祭」。もともとは、キリスト教にとって最大のキーパーソンである救世主(「キリスト」)・イエスの誕生を祝う日…ということになります。いつの間にこの国にはこんなにクリスチャンが増えたのでしょうか?…もちろん、皆さんご存じの通り実際はそうではありませんよね。華やかな雰囲気だけを借りてお祭り騒ぎをしているのが日本人の「くりすます」だと思います。もともとのクリスマスは、決して「サンタさんがプレゼントをくれる日」でも「恋人と豪華なディナーを食べて、素敵な夜景を見に行く日」でもありません。
日本人は海外の風習を派手にイベント化して商売に利用してしまうのが非常に得意です。クリスマスはこうした商業ベースに乗った輸入イベントの中でも最も定着しているものの一つではないでしょうか。他には例えばバレンタインデーも、母の日や父の日も商業化に成功したイベントですね。
こうした「くりすます」もそれはそれで悪くないと思いますが、今年はそんなクリスマスの原点に触れられるイベントに参加することになりました。第九を歌った人たちと一緒に、12月24日・クリスマスイブの日に教会に出かけたんです。出かけた理由も、やはり一緒に第九を歌った人が聖歌隊に参加していたからだったんですが。
教会に行ったのは生まれて初めてでした。入るときにはちょっと緊張しましたが、入ってしまえば特にどうということもありません。礼拝堂の中には、すでに30人くらいの人が座って、礼拝の始まるのを待っていました。聖歌隊もすでに準備OK。やがて、オルガンが鳴り響き、照明が落とされ、礼拝の儀式は厳かに始まりました。
入るときに、小さな冊子を渡されました。書かれているのは礼拝の進行手順、そこで読まれる言葉、そしてその後ろには四声合唱用の楽譜。改めて進行手順を見てみると、聖歌隊だけではなくて参加した全員が歌うようになっています。ほとんどの方は主旋律を追って歌っていましたが、中には自分のパートを歌っている人もいました。私も自分の音域にあわせたパートに挑戦してみましたが、さすがに初めて見る楽譜で、しかも主旋律とは違う部分を歌うのは非常に難しいですね。聖歌隊の皆さんを邪魔しないように気をつけながら歌いました。
歌っていて気がつきましたが、讃美歌はみんな日本語で歌われます。日本のキリスト教の歴史も400年ちょっとあるわけですし、広く神の教えを伝えていきたい…という熱意があったのですから、すべての言葉は訳されていて当然です。ところで、キリスト教には大きく分けてカトリックとプロテスタントの2派がありますが、両者で同じ曲に違う詞が当てられている讃美歌もあるのだとか。原語の段階ですでに違ったんでしょうか?
礼拝の中では、時折聖書の一節が読み上げられます。また、牧師さんからその内容をふまえたお説教を聞くことができます。教会初体験の私としては、このお話だけでもかなり「キリスト教入門」の勉強になりましたね。先ほど「救世主の誕生を祝う」と表現しましたが、これは裏を返せば自らが「救われなくてはならない存在である」ことを自覚することなのだ…という指摘には目から鱗が落ちました。自らを超えた存在に救済を求めるのは宗教の本質だとは思いますが。
その後、話は人間の「原罪」の話に及んだわけですが、とてもわかりやすかったですね。私の解釈が間違っていると怖いので詳しくは触れずにおきますが。一つ笑ってしまったのは、私が先に書いた日本人の「くりすます」について、ほぼ同じ趣旨の「キリストのいないクリスマス」の話が朝日新聞のコラム・「天声人語」で、しかも昭和24年に取り上げられた話が出てきたとき。クリスマスの商業化はそんなに昔から始まっていたんですね。
一時間半ほどの礼拝を通して、ちょっとだけ優しい気持ちになることができた気がします。「ここに集った人たちにも、そうでない人たちにも、等しく神のご加護がありますように」…そうであるといいですね。さすがに入信しようとは思いませんでしたが、彼らの言いたいことは理解できる気がしました。ただ、現在世界で最も激しく血が流されている地域の火種も宗教の対立なんですよね。そう思うと切ない気持ちになります。
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