絶対音感 (小学館文庫)という本を読みました。出版されたのはもう10年近く前になりますが、ずいぶん話題になった本です。私はまだ読んでいなかったんですが、紫緒から借りて読んでみることにしました。
もともと音楽にはあまり明るくなかった著者の最相葉月氏が、「絶対音感」をキーワードに様々な方面に斬り込んで取材を重ねた作品です。かなりボリュームもあるし、内容もかなり重苦しさのある作品でしたが、興味深い話で一気に読み進めました。もともと音楽をかじっていた私にとっては、知っていた話もありましたが、新しく知ったことも多く、いろいろと考えさせられましたね。
絶対音感とは、何かの音を聞いたときにそれをド・レ・ミ…といった音名に対応させられる能力と言って良いと思います。テレビの「天才ちびっ子大集合」みたいな番組で、小さな子供が「ピアノを適当に叩いたのを聞いて、どの音かがわかる」「身近なものを叩いたりこすったりした音が、ピアノのどの音かがわかる」とデモンストレーションを見せたのを覚えています。
実は、音の高さを聞き分ける能力自体は、それほど特別なものではありません。例えば、目の前を救急車が通り過ぎると、近づいてくるときよりも遠ざかるときの方が低い音に聞こえる…というのは、多くの人に覚えがある経験だと思います。このときの周波数の差は、ピアノの鍵盤に置き換えると半音程度。半音の差を聴き分けることは、意外に誰でも出来ているわけです。
問題は、例えば「ラの音はどのくらいの高さなのか」を覚えられるかどうか。ピアノのどの音かを言い当てるには、まずピアノの音の高さを覚えなくては話にならないわけです。言い換えると、音楽という世界の中で、周波数の差を「音高の差」として意識できるかどうかの問題になります。本来無段階の周波数の感覚に、ドレミの階段を作るわけです。
「モーツァルトは絶対音感の持ち主だった」などの話もあり、絶対音感は優れた音楽家には必須のものである…という捉え方をされてきました。ヤマハや河合楽器の音楽教室では、ピアノやオルガンで弾いた音を「これは何の音?」と当てさせるメニューがあります。かなり多くの子供たちは、こうした方法で訓練することによって音と音名の対応を頭にたたき込むことが出来ます。さらに、絶対音感を身につけさせることを主眼に置いた教育方法も存在するのだそうです。
「我が子にも絶対音感を」と思った親たちは、こぞって子供たちをこうした教室に通わせて、日本には世界に例を見ないほど多くの「絶対音感を持った子供」が生まれました。しかし、日本に優れた音楽家が増えたのか?と聞かれると、そうでもありません。むしろ「技術偏重」とか「画一的」とかいった言葉で語られて、あまりプラスイメージはないのだとか。
書中では、絶対音感を身につけたことで安心してしまい、他がおろそかになっていたのではないか?と指摘されていましたが、私もこれについては同感ですね。音名がわかるだけでは音楽は出来ません。リズムも、強弱も、歌曲なら歌詞の抑揚も…そういうものを駆使して、最終的には何かを表現していくのが音楽だと思っています。どんな楽器を使っても、それこそコンピュータに数値で演奏させても、それは変わらないはずです。
ただ、絶対音感が、それまで西洋で考えられていたような「天賦の才能で限られた一握りの者たちが持つ」というものではなく、勉強すれば獲得できるものだと明らかにした点では、日本の絶対音感教育は成果を上げたのだと思います。あとは、これをどう活用するかです。
ほとんどの人たちは、ピアノの音を基準に絶対音感を作り上げます。普通は「真ん中のラの音は440Hz」ということになっていて、ピアノはこれに合わせられることが多いわけですが、オーケストラなどではその場に応じていろいろな「ラ」が使われます。ピアノさえいなければ、基準を上下させるのはそう難しくありません。ところが、ピアノベースの絶対音感が敏感に染みついてしまうと、441Hzの「ラ」が流れるだけで気分が悪くなる方もいるのだそうです。
しかも、ピアノの調律は1オクターブを12の半音に等分する「平均律」をベースに行われることが多いんですが、実際には平均でない1オクターブの刻み方が他にもいろいろあります。例えば、管楽器や弦楽器が持っている、良く響く音程の周波数比を基にしたオクターブの刻み方は、平均律とはかなり違います。そもそも、ピアノの場合高音域は高めに、低音域は低めに…というストレッチ・チューニングが施され、オクターブの幅自体が広がっていますから、平均律云々以前の問題のような気もするわけですが。
西洋音楽以外では、音の刻み方はさらに多様です。突き詰めていくと、音階そのものに「絶対」はないと言って良いでしょう。それなのに、たった一つの音階だけを絶対のものとして刷り込まれてしまうことで、後から苦労してしまう…やっぱり、どこかで何かが間違ってしまったようです。
クラシック、ジャズ、ポップスとジャンルを問わず、有名な音楽家には絶対音感を持っている人が実際に結構いるようです。しかし、そうではない有名な音楽家も結構います。「絶対音感」には、こうした音楽家たちのコメントが数多く載せられています。
いろいろな話を総合すると、どうやら「あったら便利だ」程度で、必須のものとまでは言えないようです。それどころか、歌謡曲がドレミで聞こえて歌詞が頭に入らなかったり、BGMもドレミで聞こえてきて全然”Background”にならなかったり…という話が挙がり、先ほどの「441Hzのラ」に戸惑う人の例なども合わせると、むしろ絶対音感を持っている人たちは辛いんじゃないのか?という印象を受けました。何らかの形で刷り込まない限り身につかないものであることを考え合わせれば、これはある意味人災です。
その点、矢野顕子が寄せていたコメントは印象的でしたね。どうやら、彼女は絶対音感のスイッチを無意識のうちに切り替えることが出来るようです。縦横無尽のハーモニーで、独特の浮遊感ある音楽を作る人ですが、そのときの彼女の頭の中はドレミではなく「何だかわからないけど格好いい音」。自然界の音にドレミを見つけることも「しょっちゅうある」そうですが、それにとらわれることもないとか。何だか、そんな世界ならとても楽しそうですよね。
音楽をかじり続けた人間として、絶対音感を私自身のものとして考えてみると、それらしいものを持っていることは確かなようです。ピアノで弾いた音や、CDやラジオで流れている音楽は、ドレミで聞こうと思えば楽譜に落とすことができますが、そう思わなければ「良い曲だなぁ」という聴き方ができます。無意識とまではいかないんですが、意識して絶対音感のスイッチを入れることはできるようになったのかも知れません。ネイティブではないけれど英語は話せるようになった…という感覚と似ているかも。
生活音の中にドレミを見つけることもときどきあります。この前は、つくばエクスプレスのモーターの加速音が「ドーレー」であることに気が付きました。ときどきなので、気が付くと結構嬉しいんですよね。一つ困るのは、カラオケでオリジナルとキーが違うと音を捕まえるのに時間がかかること。これは絶対音感に悪戯されているようです。
絶対音感の持ち方としては中途半端だと思いますが、おかげで結構便利な部分が残っているとは言えますね。本格的に音楽を始めたのが小学校2年生からと中途半端に遅かったことが、この点では意外にプラスに働いているのかも知れません。
久々に「考える」を冠した記事を書いたような気がします。言い換えると、久々にいろいろ考えさせられたな…とも言えるわけで、さらに言うなら最近全然考えてないな…と…まあ、言っても仕方ないことを考えるのは止めましょう(笑)。元ネタが「絶対音感」という、音楽には密接に関わるものでしたから、頭はずいぶん回りました。収拾が付かなくなって、ずいぶん絞り込んだところもあります。
今回のWeekly SSKは、平たく言えば「読書感想文」。そういえば、最近こういうまとまった本を読むこともずいぶん少なくなりました。読書感想文といえば、小学校の頃に夏休みの宿題に出されたのを思い出します。本を読むこと自体は好きでしたが、指定された課題図書を読まなくてはならないので、嫌いな宿題でした。「原稿用紙5枚」がとても長く感じられましたね…それでも、書いているうちに全然足りなくなってしまったりするんですが。考えてみると、Weekly SSKを始めてから、毎週原稿用紙5枚以上の文章を書いていることになります。実はこれって結構すごいことなのかも。
コメントを残す