最近、箸の持ち方を指摘されてちょっと気にしています。最初の頃は、食事のたびに当たり前のように箸を持って、ふと我に返って「違う、違う」と持ち直す…という日々が続きました。半分くらい食べたところで、昔ながらの持ち方をしていることに気が付いて凹むこともありました。それでもようやく慣れてきましたね。逆に、もともとどうやって持っていたのか思い出せません。
一応、指摘されたときに見せてもらった「お手本」を参考にしているわけですが、実はお手本通りに出来ているのかどうか全然自信がありません。というのも、このお手本は右手で箸を持っていましたから。前にも触れたことがありますが、私は筋金入りの左利きですから、見よう見まねで人差し指をここに、中指はここに…とやっているわけですが、どう見ても同じものになっていないような気がします。さすがに、子供たちが使うような「矯正箸」を買ってきて使うのも恥ずかしいですし…どうしたらいいんでしょうか?
「鏡に映してみればいいじゃないか」なんて言う人もいますが、不思議なもので、右手が映った鏡を見てもそれは左手ではなくて、やっぱり鏡に映った右手でしかないんですよね。一見左右対称に見える人間の身体ですが、実はそうではないのでは?と思ったりもします。実際に、手相なんかも左右では全然違ったりするそうですし。他には顔にしてもやっぱり左右対称ではなくて、普段鏡で見ている自分の顔は他の人たちが見ているものとはかなり違っているはずなのだとか。
箸の持ち方に限らず、左利きというのはいろんなことを教わるのに苦労することが多いです…私だけなのかも知れませんが。結局は自己流で何とかするしかなくて、実際に私は鉛筆の持ち方にしても、ボールの投げ方にしても人とはちょっと(どころではないかも)違っているような気がします。ちゃんと教えてくれる人がいれば、野球ももう少し上手になれたかも…と思うことがあります。まあ、今の自分を見る限りは、少なくとも人並み以上になれるようなセンスは持ち合わせていなかったのでしょうけど。
学生時代にやっていたアーチェリーの場合は、「左利きでは教えられないから」という理由で、右手で弦を引くことになりました。ただ、アーチェリーという競技は弓を支える左手の重要性も結構高いので、結果的に右で引いたことはプラスに働いたと思っています。まあ、そこそこモノになったからこそ言えることなんですけどね。ゴルフのスイングや野球のバッティングでも同じようなことが言われますが、やっぱり左で出来るのなら左でした方が良さそうです。実際に、同じアーチェリーを左利きで始めることのできた弟・ささっちの方が上手になったと思いますし。
私たち兄弟の左利きは、母方の祖母から受け継いだようです。彼女は、左手で針を持って裁縫をするくらいですから、これまた筋金入りの左利きです。私たちの頃でさえ矯正されたことを考えると、大正生まれの祖母にとって、左手で身の回りのことをする…というのは、周囲からの風当たりもかなり強かったのではないでしょうか。それでも自らのやり方を押し通した訳ですから、かなりの頑固者であることは確かだと思います…どうやら私はこれも受け継いでしまったようですが。
「左利きは器用だ」と言われることも結構多いわけですが、これは自己流の一見不器用そうなスタイルでいろいろこなしてしまうところに原因があるような気がします。実際に、「どうしてそんなに難しい使い方をするの?」と面と向かって言われることも結構ありますね。確かに、私の知っている限り、鉛筆の持ち方にしても、箸の使い方にしても、左利きでまともな使い方をしている人は見たことがありません。
ただ、自己流でいろいろとこなさなくてはならない中で、新しいことをどのように覚えていくか…という方法論は自然に学んでいるのかも知れません。そうした意味では、「左利きは器用」という見方も、あながち間違いではないような気がします。ただし、それは生まれ持ったものではなくて、経験の中で掴んできたもののはずですが。
左利きに関する話題は、もうずいぶん前に取り上げたことがありますが、今回はそれとはちょっと違うところから斬り込んでいます。まさか、この年になって箸の持ち方を直されるとは思いませんでしたね。それを真に受けて、意地になって直そうとするあたりが私らしいのかも知れませんが。
本文でも触れたとおり、現在は少し慣れてきたところなんですが、実は最初に指摘されてからまだ1週間そこそこなんです。そう考えると、自分の「器用さ」にもちょっとは自信を持って良いのかも知れません。まあ、事が箸の持ち方という毎日の生活に密着する事柄ですから、その気になれば慣れるのは早いのかも知れませんけどね。
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